浅川の花火は、町内荒町、本町の各家々に先祖より伝承された手づくりの秘伝書が残されており、古くは江戸後期の弘化、安政時代のものも見つかっている。各家々には、○○家の紫玉、××家の吊玉、△△家の流星などのようにそれぞれ、特徴ある手作り花火があり、秘伝の火薬調合法が秘伝書に記されている。
昭和25年(1950年)「火薬類取締法」が施行され、一般家庭で火薬を取り扱うことが完全に禁止されてしまったが、昭和の初期までは、「狼火(のろし)」や「玉火(たまび)」「龍勢(りゅうせい)」や「大からくり」、竹の筒を使用した「草花火(くさはなび)」、綱をわたる「綱火」など、手づくりの花火が古老の自慢として語り継がれていた。
太い丸太を組み合わせ青竹を結びつけて製作する「大からくり」には絵柄や文字を浮き出させる仕掛け、飛び散る七色の閃光、爆裂音を響かせるさまざまな仕掛けが組み込まれています。
浅川の花火クライマックスを飾る「地雷火」は、町を見下ろす城山公園で打ち上げられます。
昭和36年(1961年)から始まったこの花火は、「素玉(すだま)」と称する花火玉を打ち上げ用の筒を使わずに直接地上で破裂させる花火で、大きな爆発音とともに、この城山を覆うように花火が扇形に広がり、あたかもこの山が噴火したような様相を呈します。花火玉は「地雷火」専用に製造を行い、打ち上げの立地条件も含めて他所では絶対に真似のできない浅川独特の名物花火となっています。
8月16日午後8時26分、「東日本大震災慰霊大花火」打ち上げを告げる防災無線が鳴り響き、全町民と来場者全員が大震災の犠牲者に対し、黙とうを捧げました。
そして、静寂の中打ち上げられた31発の花火・・・
そこには、死者の魂が安らかな眠りにつくように、そして試練に立ち向かい明日を見つめる人々へ勇気と希望を与えるようにとの願いが込められました。
浅川の花火は供養花火をその起源としていますが、今年ほど先人達がこの花火に込めた思いの原点を感じた年はありませんでした。
百年の先、平成23年3月11日に何が起きたのか、そして8月16日にどんな思いでこの花火を打ち上げたのか語り継がれるよう、私たちはこの思いを花火と共に次の世代へ引き継いでいかなくてはなりません。
東日本大震災が起こった平成23年3月11日にちなみ、尺玉30発、尺五寸玉1発の計「31連発」を夜空に放ち、震災犠牲者の冥福と東北地方の復興を祈願した。
1発目からの10連発は、銀冠のみで「祈り」を表現し、続く20発は、種類や色を多彩に変化させ、復興への願いや力強く行動する勇気などを表現した。
銀冠(ぎんかむろ):銀色の閃光を放つ花弁がしだれ柳のように垂れゆく様は華やかさよりもむしろ儚さを感じさせる。
来場の皆様と鳴り響くサイレンとともに黙祷を捧げた
太鼓の音が聞こえ、同調するように信号雷が暗闇にこだまする
天への魂への呼びかけである
“これから貴方へ祈りを捧げます、こちらを見つめてください”
連続で打ち上げられた錦冠は、一段とまた一段と大きくなり
天空に届かんばかりに昇りつめてゆく
地上の人々の祈りの大きさが伝わるように
同時5発の尺玉、緑色と紅色の千輪が咲いた、次は紅色が・・
天空へ人々の祈りが届いた意味を表している
最後に打ち上げられた二尺玉は、音も大きさも格段に違う
会場のすべてを飲み込み、人々の想いを一つに包み込んだ
どよめきにも似た歓声に胸が詰まる
天空へ、愛しい人へ、大切な人へきっと届いたはずだ
あさかわ花火物語「弘法の紅花」は、浅川の花火の起源を記した物語です。
浅川の花火、その起源には諸説伝えられていますが、江戸後期に起こった一揆騒動首謀者供養説が有力とされ、凶荒による農民たちの苦悩と哀しい歴史がそこに描かれています。幼くして失われた命の冥福とこの地の息災を願う彼らの想いを映し出すかのように咲いた紅花が物語のエピローグとなっています。
慰霊花火「幻華転生」は、未曾有の大震災に出遭った現代へ時空を超えて蘇った奇跡の紅花が震災で失われた多くの命を追悼し、復興へ歩む人々へ希望と勇気を与える・・・といったテーマのもとで打ち上げを行いました。
プロローグは、失われた命とその魂を笛の音で表現し、夜空を真っ赤に染め上げた紅一色、異色の花火は、現世に生きる人々へ何かを語りかけたはずです。
音楽創作花火としてバックグラウンドで流れた曲は、NHK大河ドラマ「八重の桜」挿入曲、組曲「希望」神の視点〜高揚〜苦悩〜新しい時代でした。
仏教における瞑想法の一つであり、心の中に月輪(満月)を観じて、それをしだいに拡大してゆき、最終的には宇宙と一体になると観想します。瞑想の中で、はっきりと丸い月を心眼に映し出し、その月を自身の胸中に入れ、胸中に入れることにより、融合して本尊の月輪と自身の心月輪は、不二一体と観じて、胸中の心月輪をしだいに拡大してゆきます。それは、宇宙へ届き光明世界に到るとされます。そこには、月輪と宇宙が一つになった理想世界が存在します。明鏡止水の言葉のように一点の曇りもない清らかな心と例えてもよいかもしれません。
五智如来という名称からすると、そのような名前をもつ一体の如来と思われますが、五智如来、阿如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来という五種の如来の総称を指し、五大如来ともいわれます。五智如来は、それぞれの智慧を有しており、これは宇宙生命活動のはたらき(宇宙の真理)を五種の仏の智慧のはたらきと見立てた表現とされており、大日如来を中心とした慈悲が太陽の光がすべての地上へ降り注ぐように人々を照らしているとされています。
浅川町簔輪地区の「ついじの森」には、町有形文化財に指定されている「七人坊主」と呼ばれる五智如来と二体の石像があります。「浅川の慰霊花火」月輪の五智花(がちりんのごちばな)〜三世への祈り〜は、如来の仏心が三世(過去、現在、未来)に亘り衆生のために常に光り輝き説法を続けていると解し、清らかな美しい真心でその教えを享受しようという意味が込められています。
「結」は、「ゆいがえし」のように日本古来からある集落や自治単位における共同作業の制度であり協力や助け合い、相手を思いやる相互扶助の精神を意味する言葉です。結びゆく心を強調し「結心」と表現しました。
仁慈の「仁」は、「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味し、「仁慈」は、深い慈しみの心、相手を思いやる優しい心を意味します。
東日本大震災の被災地では、多くの人々が苦難を乗り越え、復興への道のりを歩んでまいりました。一人、ひとりの思いが、心を結びその「絆」が試練へ立ち向かう勇気と希望を与えました。互いに助け合い、互いを思いやり、感謝と慈しみの心を結ぶ「絆」の環が幾重にも紡がれ、人々へ永遠の平和と輝く未来をもたらすよう祈りが込められました。
天空に煌めく幾重もの柳の枝葉は、人々の絆を表現し、二尺玉の大輪は、紡がれてゆく絆の環、その大きさを表現したものでした。
東方の遥か彼方に在す薬師如来の正式名は、「薬師瑠璃光如来」、薬師如来の瑠璃色の後光は、災禍を消し去り衣食を充足せしめ、一切衆生の衆病を除き心身安楽にして増益と繁栄をもたらすとされます。すべての人々にこの光輪が遍満と注がれ、如意宝珠の無限の願いが叶えられるよう祈りを込めて打ち上げを行いました。
雅楽、篳篥(ひちりき)と笙(しょう)の音色にのせ、光輪を表現する尺玉青牡丹十二段、光輪を放つ尺玉青千輪菊三段、瑠璃色に咲く様々な慰霊の光は、「浅川の慰霊花火」にふさわしい優しさと美しさを表現できたのではないでしょうか。最後に打ち上げました二尺玉(昇曲導付青芯錦冠菊)は、人々の願いと御仏の大慈悲を表し、福島県内最大級のこの花火は、「浅川の花火」を象徴する大スケールでご来場の皆様にも、その迫力を体感いただけたのではないかと思われます。
日本の古典芸能である「浄瑠璃」には、古典的物語の「伊勢物語」「平家物語」「源平盛衰記」などがあります。この「浄瑠璃」の中でも特に有名なのが、「浄瑠璃十二段草子」で「浄瑠璃物語」と呼ばれる源氏の御曹司「牛若丸」こと「源義経」と三河の国、矢矧の長者の娘「浄瑠璃姫」とのラブロマンスです。
牛若丸が、奥州平泉の藤原秀衡を頼っての旅の途中、三河の国矢矧宿を訪れました。ふらっと宿を出て散策していると、どこからともなく聞こえてくる管弦の音色に惹かれ、長者屋敷の門前へと至り、その美しい音曲に聴き入り立ち尽くしてしまいます。屋敷の中では、長者の娘、浄瑠璃姫が大きな琴を弾き、侍女たちがそれぞれの楽器を演奏しています。しかし、牛若丸は、この演奏の中にひとつだけ足りない笛の音に不思議さを感じ、懐より源氏の重宝「蝉折(せみおれ)」を取り出して口元にあてます。すると、この笛により見事に調和する管弦、完璧な調和のオーケストラが完成します。この笛の素晴らしい音色に気づいた浄瑠璃姫が、侍女たちと共に笛の名手牛若丸の笛に聴き入り、笛の奏者を確かめるために侍女を遣わせます。この出逢いをきっかけに、二人は互いの想いを込めた和歌を交わし恋に落ちてゆく・・・というのがあらすじです。ここに登場するのが、龍笛の名器、「蝉折」です。
重宝「蝉折」の名の由来は、鳥羽院(とばのいん)(西暦1103-1156)の頃、中国は宋の時代のことです、宋の皇帝から御堂建造のために、日本の建築資材である檜を所望されました。砂金千両に檜の木材を贈ったところ、そのお返しとして宋の国から種々の重宝が贈られてきました。その中に、生きた蝉のような節のついた笛竹(漢竹)一節があり、大変貴重な笛竹であったため、三井寺の法輪院覚祐僧正に命じて、祭壇の上で七日間の祈祷を行ってから笛にされたと言われています。これで作った笛を笛の名手、高松中納言藤原実衡が吹いた際、普通の笛と同様にうっかり膝より下に置いたところ、笛が無礼をとがめたのか節のところで蝉が折れてしまったため、以降「蝉折(せみおれ)」と呼ばれたそうです。その後、笛の名手とされる、鳥羽院の孫にあたる高倉宮(以仁王)が相伝し愛用していましたが、源頼政の手へ渡り、そして平家へとそのルートは明確ではありませんが、最終的に源義経の所持するところになったとされます。
仏教における「金剛」には、金剛石(ダイヤモンド)よりもはるかに硬く、ほかに比べようのない硬さであるという意味合いがあり、「金剛」という仏の意思は、私たち衆生をこの世の苦しみから救済するのだという、硬い決心と不滅永遠の徳を表しています。「光輪」とは、御仏の身体から発せられる円満の光明、衆生の煩悩を砕く智慧の光を意味しています。「金剛光輪塔」には、「金剛」という御仏の不滅永遠の力と「光輪」の至上の慈しみをすべての人々と共に享受するという意味が込められています。
「遍照金剛」とは、弘法大師の灌頂名(かんじょうめい)で大日如来の別名でもあります。弘法大師が遣唐使として中国に渡り、真言密教の教えを授かり最後の儀式である灌頂の儀を受けられた時のことでした。目隠しをして、合掌した手には仏花を持ち、如来さま菩薩さまとの縁結びのような儀式です。如来さま、菩薩さまの描かれた曼荼羅の上に花を投げ入れます。この儀式において、弘法大師の花は、二回とも同じ大日如来を示しました。この不思議に驚かれた師匠の恵果阿闍梨は、弘法大師に大日如来の別名「遍照金剛」を灌頂名として授けたのでした。
「遍照」とは、仏さまの慈悲の光明で照らされているとの意味であり、仏さまの私たちを救おうとする慈悲の優しい光は、影を作ることなく世界の隅々までを照らしているのです。「遍照金剛」である大日如来は、全ての神仏の根本の仏さまであり、その大日如来の一徳一徳を表すと、寿命を表す阿弥陀さま、優しさを表す観音さまなど、それぞれの仏となるのです。そして、その仏の意思は、なによりも硬く不滅であり、その慈悲の優しさに溢れる光明は、永遠に途絶えることなく、すべての人々とすべての場所を照らしています。
浅川の慰霊花火「吉祥の白蓮(きっしょうのびゃくれん)」には、震災から長い時間をかけて復興への道を歩み、苦難を共にしてきた人々の未来には、明るい吉祥の出来事が訪れますようにとの願いが込められました。
新しい「令和」という時代を迎えることになりました。震災や大きな災害で苦しみや悲しみを乗り越えてきた人々にも、白蓮の喩えのように、苦難の中から生まれ来る幸せに満ちた「時」が開花して、訪れた新時代には、戦争や争いごと、災害など悲しみの出来事が起こらないような平和な時代をご来場の皆様と心を一つにして祈りを捧げました。
吉祥天は、仏教の守護神である天部の一つであり、もとはヒンドゥー教の女神であるラクシュミーが仏教に取り入れられたものです。仏教では、毘沙門天(びしゃもんてん)の妃または妹ともされています。密教においては、功徳天(くどくてん)とも言われており、幸福・美・富を顕す神とされ、美女の代名詞として尊敬を集め五穀豊穣でも崇拝されています。また、吉祥金剛とは、密教では文殊菩薩(もんじゅぼさつ)を称するとされ、吉祥天は多くの神社でも信仰の対象とされています。
学問の神として知られている菅原道真公の幼名は吉祥丸であり、道真公の祖父、菅原清公卿の遣唐使での霊験(唐への途上嵐に遭遇したが吉祥天女の霊験により難を逃れた)以降、菅原家では吉祥天を信仰しており、道真公出生の地と言われる京都市吉祥院天満宮には、道真公と菅原家代々の人々が祀られています。
蓮は、水芙蓉(すいふよう)・不語仙(ふごせん)・池見草(いけみぐさ)などの異称を持ち、古名では「はちす」と呼ばれ、花托の形状を蜂の巣に見立てたとする通説があり、その転訛が現在の「はす」の呼称になっています。仏教では泥水の中から生じ、清浄で美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されています。蓮華を象った蓮華座や厨子の扉などの彫刻、「常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華など、仏教では最も尊重される花とされます。また、蓮の蕾の中には、既に実が結実しているので、一切衆生が生まれたつき仏性(実)を具えていることに喩えられ、蓮の花は特別な意味を持っています。